人が死ぬということ


別に、世界全部が平和であればいいなどという、
平和主義者ではありませんが、
死ぬ人が多いと、というか死ぬ人の情報が多く聞かれると
さすがに切なくなりますね。


今朝方寝ぼけながらテレビかけてたら、
ZARDの坂井和泉が死んじゃったって言うし。


んで、私、地元の秋田魁新報メーリングリストに入っていまして、
毎日その日のニュースが送られてくるようになっています。
今回の記事には、介護疲れか、心中で亡くなった人の記事がありました。
いつも、介護疲れの心中の記事を見ると苦しくなる。


一昨日はどっかのだれかが(確か殺された人の孫だった)、92歳だかの爺さんを殺してました。
92歳なんて、殺さなくても、いつかはお迎えが来るだろうに。


自分の母親も介護で大変な思いをしたから、介護する側の大変さも
介護される側の大変さも、近くで見てきたから、
どっちの気持ちも察することができ切なくなる。


お年よりは、元気な人ももちろんいるけれど、
家族と生活していたり、施設にいる人たちは、
ぼけてしまっても自分が迷惑をかけていることを十分に知っていて、
いつでも「死にたい」って言うんだよね。


そんな言葉を聴くと切なくなりますが、
それが彼らの本当の気持ちなので、
「しんじゃいけない!!」なんて精神論で乗り切ってはいけません。
まずは、ゆっくりゆっくりお話を聞いてあげることが一番ですね。


でも、もっと切ないのは、近いからこそ、
その言葉をどう受け止めていいのか、わからないでいる家族たち。


今まで一生懸命介護をしてきたのに、「死にたい」だなんて
どういうこと?私たちの介護じゃ満足できないってこと?
って思っちゃうんだよね。


あと、自分が尊敬してきた両親や、義父義母が、
自分に生きることを教えてくれた両親や、義父義母が、
「死にたい」って言うことは、
介護する側にとっては、自分がこれまで歩んできた人生が否定されるようで、
苦しい出来事なんでしょうね。


こういう思いをしている介護している側には、
何を言っても通じません。
介護している側が悪いわけではなくってね。
もう、「死にたい」って言われたことがショックでショックで
どうすることもできないんだよね。


そういう時、第三者は、どちらかというと介護される側のケアに入ります。
そうすることで、介護する側が介護される側に接する時間を減らすことができますし、
介護する側が「どうして〜」って思うような出来事を、代わりに吸収することもできますし。
もちろん、介護する側のケアも必要ですが。


ま、一概にはいえませんけどね。
難しいですな。
ほんと難しいです。


さて、私は昨日まで家に引きこもっていたので、
今日は天気もいいし、学校に行こうと思います。
大学院生の生活をしてよかったことは、
きっと自分の子供が不登校になっても、
心を大きくして、休めといえるでしょう。
じいちゃんばあちゃんとも、日長に話ができるでしょう。


今日は、秋田も天気がいいみたいですね。
天気がいいことは、いいことです。
この天気に励まされて、一人でも、一日でも長く、
自分の人生を満足に全うしてくれる人がいればいいと願うのみ。


さ、今日はがんばって生きるぞう。
って、もう昼ですが・・・。